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日本では報道される機会が少ないビルマ(ミャンマー)に関する外国メディアの報道を翻訳して載せています。
2025/04月

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9月4日は在日ミャンマー人たちの祭り、ダディンジュ(燈明祭り)に行った。

ダディンジュとは仏教の行事で、9月下旬から10月上旬の満月の日に行なわれる。雨季が終わってお釈迦様が天から降りてくるときに足元を照らすためにろうそくや松明をあちこちに立ててお釈迦様をお迎えするという祭りである。

春の水かけ祭りは、みんなで水を掛け合うにぎやかな祭りだが、燈明祭りは、夜に松明やろうそくがゆらゆら揺れる厳かで幻想的な祭りである。

例年だと、水かけ祭り同様、北区にある飛鳥山公園で開催されるのだが、今年は板橋区の税務署の駐車場という、えらくこじんまりした場所で行なわれた。それも、商店街のド真ん中である。

実はこの祭り、今年はミャンマー人の友人が主催している。水掛祭りも、この燈明祭りも例年なら民主化グループが行なっていて、極めて政治的要素が濃い祭りになる。各少数民族の武装グループの旗がはためき、政治風刺を描いた漫画が展示される。そして、現在の軍事政権を批判し、民主化運動の正当性を訴えるアジ演説が行なわれるのだ。特に日本人ジャーナリストの某氏の演説がひどい。ぼくはあの人が出てくるだけで、うんざりした気分にさせられる。もし、今日も彼らが開催していれば、アウンサンスーチー氏が政権側の人間と会い、アメリカの外交姿勢が軍政との対話政策にシフトしつつある今、ここでも政治的な演説がしつこく行なわれていただろう。しかし、今年はいつものような不快感を覚えなくて良さそうだ。

時間が13時から17時と短いので、バンド演奏もなく、民族舞踊が中心だった。ミャンマー人の行事となるといつも登場する舞踏家がオープニングで踊っていた。パッと見、オカマちゃんみたいな感じだが、れっきとした女性である。ミャンマーではプロとして活躍し、大学でも教えていて、ミャンマー舞踊では相当権威のある人だという。

会場が狭いので、屋台も少なめ。とりあえずビールの肴にと、ソーセージを買った。店の人は豚餅と呼んでいたが、おそらくインドシナ各地にある、豚肉を使った発酵ソーセージと同じものだろう。ベトナムによく行っていた頃、北部の街にいるとき、しょっちゅうこれと同じようなものを食べて酒を飲んでいた。



ミャンマーのこれも、めちゃくちゃうまいというものではないが、酸味が利いていて、一度食べるとなかなかやめられない食べ物である。

屋台をうろうろしてみたが、これといって食べたくなるものがない。まあ、ミャンマー料理というのはそんなにうまいものではないので、あまり食指が動かない。その中でなんとなくうまそうに見えたのが、春雨の野菜焼きそばみたいなもの。これはまあまあであった。

ダディンジュ2009


ステージでは日本人が長渕剛の『乾杯』のミャンマー語版を歌って、さかんな拍手を浴びていた。

狭い会場内をウロウロしていると、女の人から声をかけられた。今回のこの祭りを主催しているミャンマー人の妹さんだった。貿易会社に勤めていて、今年の春に子どもを生んだ。彼女によると、肝心の友人は、義理の母親が死亡したので、現在ミャンマーに一時帰国しているという。ミャンマー人のだんなさんは焼肉店の店長をしているが、おそらくミャンマーにいたら出会うことはなかったようなカップルである。雰囲気が明らかに違う。

彼女がダンパウッ(鶏の炊き込みご飯)を食べていて、うまそうに見えたので、ぼくも買った。まあまあかな。

ステージではおなじみの漫才があり、ミンガラドゥという在日ミャンマー人の民俗音楽のバンドの演奏となった。もう何度も見ている人たちである。出演者も会場にいる人たちもどこかで見たことがある人たちが多く、正直マンネリ感が否めない。

ダディンジュ2009ダンサー1ダディンジュ2009

タイヤベトナムのフェスティバルが、代々木公園で何十万もの人出を集めるのに対し、ミャンマーの祭りが税務署の駐車場というのはなんとも侘しい。ひとえにこれは、ミャンマーの現政権が対外的に開かれた政権でないからだといえると思うのだが、駐日大使館をあてにしないで、在日ミャンマー人たちの手で、代々木公園でできるくらい大規模な祭りにして欲しいものだ。

今回がその第一歩になってくれればと思う。

ダディンジュ2009


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自宅軟禁中のミャンマー民主化運動指導者、アウンサンスーチーさん(64)は10月3日、ヤンゴン市内で軍事政権のアウンチー連絡担当相(労相)と約45分間会談した。両者の会談は2008年1月以来。

詳しい会談内容は不明だが、スーチーさんは9月下旬、米政府の対ミャンマー政策転換を受けて軍事政権トップのタンシュエ国歌平和発展評議会議長に「(欧米による)制裁解除へむけ協力する」との手紙を送っており、会談でこの問題について話し合った可能性がある。

軍事政権は2007年9月の反政府デモ武力鎮圧に国際社会の非難が高まったのを受けて、アウンチー氏を連絡役に任命してスーチーさんとの対話を開始。しかし、スーチーさんが内容に不満を表明する形で昨年1月から中断していた。

1年8ヶ月ぶりに両者の会談が実現した背景には、オバマ米政権が、軍事政権への強硬政策を転換して、対話姿勢に転じたことが挙げられる。

スーチーさんは、このままでは自身の解放や来年予定されている総選挙への参加が実現しないまま政権と国際社会との関係改善が進みかねないとの危機感から、政権との対話拒否の強硬姿勢を弱め、タンシュエ議長への手紙発送や、アウンチー氏との会談再開に応じた可能性がある。

一方で軍事政権にとっては、スーチーさんとの対話再開で国際社会に柔軟姿勢をアピールできる。しかし、米政権は10月2日、米国人男性侵入事件の裁判でスーチーさんの控訴を棄却し、選挙期間中までスーチーさん軟禁を継続する姿勢を改めて明確にしたばかりだ。

スーチーさんが国際社会の動きに焦りを深めれば、軍事政権との対話は、政権側のペースで進みかねない。
                          (10/4 毎日新聞)
コーカン事変の拡大で最近、制御を失ったワとビルマ軍との緊張は、ワ指導部とその一族を静かに近隣国へ避難させたと、いくつかの情報筋が語った。

彼らはしかし、はっきりとした情報を得ていないようだ。

その間、未確認の情報が、信頼すべきコーカン反乱軍側の情報筋からもたらされた。それは、ペン・シャオイー(Peng Xiaoyi)という退任したコーカン指導者の妻、ペン・チエシャン(Peng Jiashang)の三女が、9月2日にミンガラドン空港で、こどもたちを伴っているところを逮捕されたというものである。ほとんど出国目前だったという。

ペン婦人の弟はラングーン在住で、すでに拘留されている。「ラングーン、マンダレー、ピンルーウィン(メイミョー)にある彼らの家と資産ははすべて捜索・手入れを受け、差し押さえられている」と情報筋は語った。

「少数民族組織の指導者のひとり」という地位を享受し続けてきたペンも彼が武装部隊をビルマ軍に操られる国境保全軍への転換というネーピードー政府の提案を拒否したことで、一夜にして麻薬密売人の汚名を着せられることになった。

ペンが開いた道は、彼のような、政府の提案を拒否し続けている他の少数民族反乱軍の指導者たちに受け継がれていくことになるだろう。
                       (9/4 シャンヘラルド)
日々ワ州の首都パンサンでワ州連合軍の政治及び軍事情勢を追う情報筋によると、ビルマ国軍が迫り、戦争の予感を感じさせる中、悩めるワ族の最高指導者パオ・ヨウシェン(Bao Youxiang)は、最近チャオ・チョンタン(Zhao Zhongdang)を副官として選出した。彼は、優れた戦争遂行能力を有していることで知られた男である。

情報筋は、チャオ・チョンタンがいつ任命されたかについては語らなかった。

チャオ・チョンタンのワにおける公式階級は、第二副司令官である。ちなみに、第一副司令官はタ・アイ・ロンである。

「もちろん、彼が何を望もうと、チャオは今もパオに相談し、彼の同意を得なければならない」とワ指導部に近い情報筋は語った。
チャオの任命はまた、副議長シャオ・ミンリェンとチャオ・ウェングアンより政治的に優位に立つことを意味している。

1989年の休戦前、彼はシャン州南部に展開していた418部隊の司令官だった。「彼はコル・サン・モン(同地区のクン・サ軍の司令官の一人)のために、迅速な戦術(迅速な攻撃、迅速な撤退、迅速な兵力集中、迅速な兵力散開)で労を惜しまず闘った。UWSAは、思うに彼の決定権の下にあるのではないか」と南シャン州軍の指導者、サオ・ヤウザーク(Sao Yawdserk)は、昔を思い出して語った。

彼は、シャン国家人民解放組織(Shan Nationalities People Liberation Organization)の指導者、ターチレイ(Tarkeley)の次女と結婚した(すでに死亡)。

「彼がサルウィン川の西地区で積んだ経験というのは、シャン全土の政治的及び社会的情勢を理解しているという証明であり、彼の出身がワ州ではないということだ」と別の情報通は語った。

さらに以前、パオの弟ヨウリエン、彼は財務部門のトップだが、日々の雑務を処理していると報告されていた。

「大半のワ軍将校にとって、チャオ・チョンタンはパオ・ヨウリエンよりはましな選択だ。チャオは広範囲に遠征経験があり、彼の軍事経験は現在の指導層では並ぶ者がない」と数年間にわたってワ軍との商取引を行なってきた情報筋は語った。

パオ・ヨウシェンにとって他に欠くことのできない指導者はウェイ・シュエガンだと思われる。彼は、タイ国境に基地をおく171軍区の公式司令官であり、財務関係を取り仕切っていた。「最近私が密談をしたとき、パオとは別にウェイとチャオだけがいた」とシャンの停戦交渉代表は当時を思い出して語った。
                       (9/7 シャンヘラルド)
ミャンマー軍事政権に抵抗し続けてきた民主化運動指導者の
アウン・サン・スーチー氏が一転、軍事政権トップに協力を
呼びかけた。

クリントン米国務長官が23日にミャンマー軍事政権との対話
を進める姿勢を示すなど、米政府がミャンマーとの対話外交
に転じた機をとらえ、弾圧を続けてきた軍事政権の強硬姿勢
に変化を誘おうとする狙いが読み取れる。


軍事政権トップのタン・シュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長が、スー・チー氏の申し出を受け入れれば、2002年1月以来の直接対話が実現する。スー・チー氏が提唱する「国民和解」の成否は、民主化プロセスの一環として来年に予定する総選挙への軍事政権の対応が焦点となりそうだ。

スー・チー氏と軍事政権の間の相互不信は根深い。02年の対話後に自宅軟禁を解かれたスー・チー氏が民主化活動を再開すると、タン・シュエ議長は、03年5月に再び拘束して自宅軟禁におき、「国民和解に向けた対話再開は、容易には実現しない」(ヤンゴン外交筋)と見られていた。だが、不信緩和への双方の環境も変化しつつある。

スー・チー氏は、5月、自宅に不法侵入した米国人に面会したことで、国家防御法違反罪に問われ、特別法廷で禁固刑の有罪判決を受けたが、タン・シュエ議長命令で1年半の自宅軟禁に減刑された。スー・チー氏は最近、医師を毎月派遣して欲しいと当局に要請するなど健康面に問題をかかえている模様。米オバマ政権の動きを絶好の機会と考え、相互に歩み寄る形で現状を変えようと模索していると見られる。

軍事政権にとっても、総選挙の結果が国際世論の動向に直結するという事情がある。今のところは民主化勢力抜きで総選挙を進めようとしており、スー・チー氏の姿勢にどう応じるかは、読みきれないが、アジアでも北朝鮮と並ぶ最貧国に転落した現状を変えようと、議長が前向きに応じる可能性もある。
                        (9/26 日本経済新聞)

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